馬毛島 2021年4月11日

馬毛島

今日の馬毛島も静かです。日曜日だからでしょうか。馬毛島近海には船は見えません。

馬毛島はいろんな歴史がある島です。

種子島家譜に載っている文章を紹介します。家譜に初めて馬毛島が出てくる時の文章です。

天正14年丙戌 久時馬毛島に狩す。西村二郎四郎時祐、大猪に遇いて将に之を刺さんとす。歯牙に触れて股に傷つき、痛んで死す。年19

 天正14年は、1586年。安土桃山時代、豊臣秀吉が関白になった年です。ヨーロッパでは大航海時代の後半になるのでしょうか。ポルトガル、スペイン大活躍の時代?

  久時に関しては、ネットで調べると16代久時と18代久時がいるようで、どうも16代の久時のようです。16代久時について、ウィキペディアでは以下のように記載されていました。

永禄11年(1568年)、種子島氏第14代島主・時尭の次男として生まれる。第15代島主の座は長兄の時次が継いだが早世したため、一時父・時尭が復帰したあと、薩摩国の島津義久より家督相続を認められて元服し第16代島主となった(義久が烏帽子親となり、“久”の字を拝領している)。その後は島津氏の家臣として沖田畷の戦いや大友氏との戦いに参戦する。天正18年(1590年)の小田原征伐にも参戦し、このときに豊臣秀吉に鉄砲200挺を献上した。文禄・慶長の役でも、島津義弘に従って渡海している。文禄4年(1595年)、太閤検地の煽りを受けて種子島の領地は島津以久に与えられたため、代わりに薩摩国知覧院に所領を移されたが、慶長4年(1599年)に種子島に所領を戻されている。その後は義弘、島津忠恒の家老として仕えた。慶長16年(1612年)、死去。享年44。その時点で跡目となる男子はいなかったが、このとき側室が身ごもっていた忠時(第12代島主の忠時とは別人)がおり、出産後に家督を継いだ。なお、久時は鉄砲術に優れ、文禄・慶長の役において島津軍が無類の強さを見せつけたのは、久時の鉄砲におけるところも大きいといわれている。このため、久時の鉄砲による武名は高かった

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